多摩ニュータウンと太陽丘



おそらく多くの人が知っている多摩ニュータウン。
その多摩ニュータウンの先駆けとして「多摩平団地」があった。
サラリーマンなど都内に通勤する人の住宅としてつくられたのだ。


当時、「団地」という言葉は流行語のように使われ、
「団地族」など「団地」がつく言葉はとてもお洒落な言葉だった。
今でいう「タワーマンション」や「タワマン」と同じだ。

サラリーマンなど都内に通勤する人の住処としてつくられた
団地の家の中には風呂があり、洋式の水洗トイレもあり、
当時の人からしたら憧れの小洒落た住まいだった。

東京に引っ越した私の家も洋式の水洗トイレだったことから、
小学校の和式トイレが使いづらく、トイレをしたくても家までガマンした。
今、和式トイレを使えない小学生が増えてきたことなどから、
学校への洋式トイレを導入する声が金沢市で高まってきているが、
すでに私が60年前に経験したことであり、
当時の東京では小学校のトイレについて議論されていたことである。

1992年、みらいグループは、医王山のふもとの
金沢市街を見渡すことのできる丘陵地に住宅地を造成した。
今までにないあらたな街をつくろうと、
いくつもの開発案をプランナーとともに考えた。
そして、一つの開発案で計画を進めようとしていたが、
私はどこか納得できず、もう一度プランナーと開発案を再考した。
そうやって、誕生したのが太陽丘ニュータウンだ。

この太陽丘ニュータウンの街をつくる時にイメージしたのが、
私が中学、高校と学生時代を過ごした「多摩平団地」と、
学生時代に旅行したり、社会人になって駐在していたアメリカやヨーロッパの街並みだ。
多摩平駅から団地に続くプラタナスの並木道や、
団地や家々の周りに設けられた青々とした芝生スペース。
これらのイメージがいかされ、他の街並みとは一線を画す
美しい街並みと眺望を誇る太陽丘が誕生したのだ。

2016年に十一代 大樋長左衛門を襲名された大樋年雄氏より
「不思議な空気感を持つゲートタウン」と賞された太陽丘。
令和2年10月15日現在、907世帯、2,682人の方が暮らす大きな街となり、
街のシンボルとなっているメタセコイヤの並樹道は太陽丘に暮らす人だけでなく、
観光客も多く訪れ多くの人に四季折々の美しい景色を楽しませてくれている。

そして、あとから知ったのだが「太陽丘」と、
私が学生時代を過ごした「多摩平団地」の造成地の広さが、
偶然にもどちらもほぼ40万坪で同じであったことに最近気づき
何か縁というものを感じている。

医療法人社団 映寿会
社会福祉法人 中央福祉会

理事長 北元 喜洋