2度目のドイツ(1) 英語恐怖症からドイツへ

ニューハンプシャー州のキャンプ場での短期雇用を終え
アメリカから帰国した翌年の1972年、
今度は、ヨーロッパに行きたいと思うようになった。
私の英語がアメリカで通じなかったことで英語恐怖症になり、
ドイツ語を学びたいという気持ちが大きくなったからだ。
また、大阪万博が終わった頃で、
多くの日本人が海外に興味を持ち始めた時代であり、
さらに、ベ平連のリーダーだった小田実の
著書「何でも見てやろう」によって、
世界を旅行しようという若者が多くいたことも
ドイツへ渡ろうと思ったきっかけになっていると思う。
バックパッカーの走りだった。
ドイツに渡り、ケルンの語学学校に3ヶ月間短期留学することにした。
当時、ドイツへ渡るためには、アメリカ・アラスカ州の
アンカレッジ空港に立ち寄らなければならなかった。
ターミナルには、日本人飛行客のためのうどん店があり、
値段が高く、美味しいわけでもなかったが、
私もそのうどんを食べ、日本に別れを告げ、
そしてアンカレッジからドイツへと渡った。
私が通ったケルンのドイツ語学校には、
私の他にもグループで学校に通っている日本人学生がいた。
ただ、私から話しかけることをせずにいつも一人でいたために、
日本人グループからは韓国人だと思われていたようで誰も近づいてこなかった。
今の私を知っている人には信じられないかもしれないが、
大学生の頃の私は、とても内向的な性格だった。
性格は持って生まれたものではない。
環境によって変わることもあるし、自分の意思・行動で変えることもできる。
今の性格は自分で作り上げたものであることを忘れてはいけない。
誰のせいでもない。自己責任である。
医療法人社団 映寿会
社会福祉法人 中央福祉会
理事長 北元 喜洋